不遇を乗り越え、究極の夢である「世界一」へ挑み続ける

Athlete # 02
アルペンレーサー
石井 智也(ゴールドウイン・スキークラブ)

「1レース1レースを悔いのないように、これが最後だと思って戦っている」



2月に韓国平昌(ピョンチャン)で行なわれた冬季五輪ジャイアント・スラローム(大回転)競技に日本代表として出場した石井智也は、北海道歌志内市に生まれ育った。かつて石炭の採掘で栄えた歌志内は、第二次大戦の直後には46,000人もの人が暮らす全国でも有数の規模を誇る炭鉱の町だった。だが、その後石炭産業の衰退とともに炭鉱は次々と閉鎖され、それに伴って人口は急減する。石井が生まれた1989年にはすでに1万人を割り、現在の人口は往時の10分の1にも満たない約3400人。典型的な過疎の地となったが、それを逆手に取り“日本でもっとも人口の少ない市”という、自虐的だがユニークなキャッチフレーズで知られている。

しかし、アルペンスキーを志す人間にとって、歌志内はある種、憧れの地である。町の北には美しい山容を誇る神威岳(標高467m)がそびえ、そこに開かれたスキー場には“かもい岳レーシングチーム”という名門のジュニアチームがあるからだ。1975年に創設され、多くのトップレーサーがここから巣立って行った。

チームの創設者であり現在はスキー場の支配人も務める斉藤博の指導のもと、国内大会やジュニア世界選手権のチャンピオンが輩出。アルペンスキー界の“虎の穴”として全国に名を轟かせた。名伯楽・斉藤に教えを乞おうと、各地からかもい岳レーシングへの“スキー留学”にやってくる若者も多かった。

そんなチームが身近にあったのだから、石井がアルペンスキーに興味を抱くのは当然のことだった。そもそも歌志内の子どもたちにとって、冬の遊びはスキー以外にほぼ選択肢はない。石井は加入資格の生まれる小学校3年生になるとすぐに入部。以来中学生まで、来る日も来る日もかもい岳をベースにスキーの練習に明け暮れた。

チームの練習は厳しかったけれど、滑ることが楽しくて楽しくて仕方がなかったという。

“日本でもっとも人口の少ない”歌志内から世界へ



アルペンレーサー石井智也選手

日々の練習の中で、斉藤は選手たちにつねに“世界”を意識させた。

「出場する大会で好成績を残すことはもちろん大事だが、たとえ勝てたとしても満足せず、つねにその先をめざしなさい、日本を飛び出し世界を相手に戦いなさい」と言い続けたのだ。中学生の全国大会で優勝し、同年代のなかでは飛び抜けた力を持っていた石井は、そんな斉藤の叱咤激励に応え、やがて活躍の場を世界に移していった。

初めて日本以外の雪で滑ったのは、中学3年生の秋のことである。地域の選抜メンバーの遠征に加わり、イタリアの氷河スキー場、パッソ・ステルビオに行った。日本とは比較にならないほどの大斜面。雪の硬さも段違いで、なかなか自分の思うようにはスキーをコントロールできなかった。15歳の少年は、初めて世界の壁を実感し、いつかこれを乗り越えようと自分に固く誓ったという。

この遠征の間、石井は初めてワールドカップを観戦した。ワールドカップは世界のトップレーサーだけが出場を許される最高峰の戦い。毎年10月の末から3月半ば過ぎまで、ヨーロッパのアルプス諸国(フランス、イタリア、スイス、オーストリア等)を中心にアメリカ・カナダ、北欧(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)、アジア(日本、韓国)など、各国を転戦するシリーズ戦だ。

オーストリアのセルデンで行なわれたそのシーズンの開幕戦。日本からは佐々木明が出場し、見事に入賞を果たした。オリンピックに4度出場し、ワールドカップでも2位に3回入るなど、日本人としてもっとも世界の頂点に近づいた選手である佐々木の存在は、石井にとって憧れであると同時に大きな目標でもあった。その佐々木が素晴らしい滑りで世界と渡り合うシーンを目の当たりにして、石井が感動し興奮しないわけはなかった。

「斉藤さんもそうでしたが、その後進んだ高校時代の監督さんからもいつも(佐々木)明さんのことを聞かされていました。『少年時代の明はこんな選手だった。こんな練習をして、こんなことを考えていたんだぞ』って。そしていつかお前も明に追いつき、追い越せるような選手になれって励まされました」

アルペンレーサー石井智也選手

偉大な先輩の背中を追いかけ、同年代のライバルたちと激しく競い合いながら、やがて石井は日本の頂点に立ち、世界への階段を登り始める。高校はスキーの名門北照高校に進み、1年生のときに早くもナショナルチーム入り。3年時には、インターハイでジャイアント・スラロームとスラロームの2種目を制覇し、さらにはジュニア世界選手権のスラロームで3位という快挙を達成した。

このレースの優勝者はマルセル・ヒルシャー(オーストリア)。現在7年連続でワールドカップの総合優勝というとんでもない大記録を継続中の最強レーサーである。ヒルシャーと石井とのタイム差はわずか1秒15。この時点での石井の力は、間違いなく世界中の同年代のなかで最高レベルにあったといえるだろう。

しかし、いざ戦いの場をヨーロッパに移すと、そこは彼の想像以上に厳しい世界だった。コース設定は国内レースのそれと比べ、技術的にも体力的にもはるかに難しくなり、加えて石井のような新参者は、スタート順も遅い。アルペンレースは、強いものがもっとも優遇されるという点で残酷なスポーツだ。スタート順はランキングの上位選手から。したがってあとから滑る選手は最初からハンディキャップを背負う。

彼が滑る頃にはコースが荒れ、思うような滑りができない。先にスタートした選手のエッジングによって雪が削られ、コース上には深い溝が刻まれるからだ。決まったと思ったエッジングが決まらず、通れるだろうと思った滑走ラインから外れてしまう。結果として思うような滑りができず、タイムを失ってしまうのだ。誰もが通る試錬の道だが、そこを突破し上のレベルに這い上がれる選手は本当の一握り。同程度の実力を持つ選手が世界中から集まるなか、集団から抜け出し壁を乗り越えるためには猛烈な努力に加えて、ときには運も必要なのである。

努力がわずかにたりなかったのか、それとも大事なところで運に恵まれなかったのか? いずれにしても順調に上向いていた石井の成長曲線は、次第にその勢いを失っていった。大学生以降、彼は依然として日本のなかではトップレーサーのひとりであり続けたが、ワールドカップで好成績を残すまでには至らなかった。

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スキー/Skiing

アスリート名

石井 智也

競技名:アルペンスキー

生年月日:1989年5月23日

出身地:北海道

身長・体重:173cm・73kg

競技名:アルペンスキー

生年月日:1989年5月23日

出身地:北海道

身長・体重:173cm・73kg

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